校区の歴史


史跡「嶋上ぐんが遺跡」の真ん中にある川西小学校

1970年、川西小学校の敷地内から、奈良時代の堀立柱家屋群の柱穴が多数みつかりました。国の遺跡指定をされたため、校舎の増築工事ができなくなりました。文化財の保護か、教育優先かで議論がなされましたが、1971年、10室の増築だけ文化庁から許可されました。
埋蔵文化財保護のため遺跡を人工地盤でおおいその上に鉄筋づくりの校舎を建てる工法をとり建てられたのが、現在の川西小学校です。

それ以後の増築は不可能になりました。
川西小学校の北側で、石組みの井戸の底から「上郡」と墨でかかれた土器がみつかりました。嶋上郡をさすこの「上郡」の土器の発見により、この地に郡役所、嶋上ぐんがが、存在していたことが証明されました。
ぐんがは、柵や溝で囲まれた中に長大な建物群が整然とならぶ律令制下の郡行政の中枢です。奈良時代の郡役所がこのような姿で、発見されたのは全国的にもめずらしく、近畿では、初めてのものです。

郡が跡公園から見た川西小学校

阿久刀神社(あくとじんじゃ)

校歌に歌われる花づづみを持つ「芥川」。その芥川の西岸に位置する嶋上ぐんがの北には、郡の繁栄を願い、阿久刀神社がまつられました。
平安時代の作られた延喜式(えんぎしき)の中に名が記されている延喜式内社(えんぎしきないしゃ)なのです。阿久刀神社の里を流れる阿久刀川が転じて芥川と呼ばれるようになったという説もあります。
神社南側より、古墳時代前期の竪穴式住居跡が見つかりました。周辺には約130基の住居群が広がっており、同時代の集落としては大規模なものであることがわかりました。

川西という地名について

亨保(18世紀初)のころの芥川宿絵図に西国街道があり芥川の西に13軒の集落が描かれています。明治12年の村誌では、小字「川西北浦、同南浦」の名で呼ばれています。「川西町」の名は、昭和42年6月、現在の地域表示に変更されました。