五百住の昔

(T)「五百住」地名の登場
 
私たちの学校名である「五百住」は、高槻市の中でも、難読
地名の一つです。
 この「五百住」をいつのころから、「よすみ」と読むようになっ
たのか定かではないのですが、「五百住」の地名が記載され
ている初見史料は、1362(貞治元)年の日付があります。
 また、1594(文禄三)年の、富田村検地帳の名請人(年貢
を納める責任者)の、字名(あざな=旧町村内の区画の名)に、
「よすみ」という記載が、いくつか見られます。
 これらのことから、鎌倉後期〜室町時代(14世紀〜16世紀)
にかけて、読み方がほぼ確定していったと思われます。
(U)「五百住」地名の由来

 この「五百住」の地名の由来ですが、「東五百住村
村誌」1879(明治12)年に、
いくつかの説がありますの
で、紹介します。

(1)「日本書紀」竹村屯倉(ミヤケ)伝承からの説

 「日本書紀」安閑天皇元年の条に、三島の「屯倉」設
定の記事が載っています。この「屯倉」というのは、
大化前代の農業経営の拠点で、屋・倉などの建物や
田地のことをいいます。

 この記事の内容は、
 〜安閑天皇が、摂津・河内の大国造(くにのみやっこ)
大河内直味張(あじはり)に、彼の配下の雌雄田(とても
よい田の意味)を、屯倉の地として出すよう命じました。
ところが、味張は、その田は雨が降ればたちまち水に
つかり、わるい田であると嘘をいって出しませんでした。
 一方三島県主飯粒(いいぼ)は、天皇が良田の所在を
問うと、たいへんありがたい仰せであるといって、すぐさ
ま四〇町の良田を献上しました。
 このことにより、味張は地方役人の職を解かれたうえ、
自分の配下の農民を、春秋五〇〇人ずつ、ミヤケの耕
作民として提供することになりました。
 河内県の農民(部曲=かきべ・うじのやっこ)を、竹村
屯倉の田部(たべ)とすることは、ここにはじまる〜
 というものです。

 これから「村誌」では、味張が提供した部曲五〇〇人
が居住した地=「五百住」の地名が起こったとしていま
す。ただ、「高槻市史」では、この屯倉の労働力の居住
地を、市内芥川東岸にある上田部・下田部の地名に推
定しています。






(2)「潮水運送の民の居住」説


 平安時代初期(9世紀)、嵯峨天皇の子
で、源氏の姓をうけて臣籍に下った左大
臣源融(みなもとのとおる)は、京都六条に
河原院、東六条院などの豪華な邸宅を営
みました。

 この屋敷に、尼崎から潮水30石を運ぶ
数百の民が行き来していました。それらの
民が、行程の中間地点にある五百住あた
りを旅宿としていたところ、いつの間にか
住み着いていきました。

 このことにより、地名が起こったとされて
いますが、「東五百住村村誌」では、俗伝
としています。